『都会のアリス』(ヴィム・ヴェンダース)

フィリップはどうも直線的に動くのが苦手な人のようで、特に言葉をまっすぐ、屈折なく相手に伝えることに、時折の困難を感じており、たとえば、アリスの母親に通訳を頼まれると、今まで話せていたはずの英語につまり、どもり、順々に発しなければいけない音が一つの塊となって、声門にひっかかっているかのようだ。かといって、アリスと飛行機内で、アルファベットを組み合わせる言葉遊びもしていることから、直線状に流れるような言葉ではなく、入れ替え、組み替えられるような、塊としての言葉を楽しんでもいるようで、そういえば、どもるようなところでも、フィリップはあたかもアリスの母と飛行場の係員との通訳訳を楽しんでいるかのように、つまり「つまる」ことで通訳の存在に皆が手で触れられるように実体化しているようにさえ見える。写真ばかりとって、空間を画像と比較してばかりで、メモは書けども、直線上の文章を書けていないことで、怒られるところもそうであろうが、そこでおもむろにカメラを取り出し、その相手を撮るといった「失礼」な行為に写真を使っている。少年が「勝手に撮らないで」と言う場面もある。とにもかくにも写真を撮ることがあまり楽しそうな、豊かな行為としてフィリップに在るわけではない。撮られた空間は塊のように硬化し、その画像は、像が現れるのにかかる時間分だけちょっと後の空間と比べられることになる。フィリップはそうするのが好きなのだ。写真の中の像は固定化されている。今となっては、変質させることのできない過去のまなざしによって、見られた光景が写っているものとされる。しかし、はたして、写真を見るという行為はそのようなものなのだろうか?
アリス、アリスはガラスの回転扉とともに現れる。そのアリスと彼は旅することになるのだが、その途中、彼を写真に撮るシーンがある。「自分じゃわからないでしょ」と言って撮るのだが、そこでは、フィリップは自分が写る写真の表面にアリスの姿が反射して映っているのを見ることになる。つまり、写真は過去の光の痕跡、過去のまなざしの痕跡を、あくまで「今」の光に照らして見るのであり、その意味で徹底的に「今」に属するものなのである。彼の写真を持つ力加減により、写真は微妙に湾曲具合は変化し、それにより映るアリスの顔の歪み具合の絶え間ない変化が生じる。
よって、フィリップの写真行為は、過去のまなざしを絶対、不変とすることで、現在から過去を追放してしまっていたのかもしれない。写真は確かに、誰にとっても「停滞」かもしれない。しかし、アリスが回転扉をひたすら回すように、そしてだからこそフィリップの目にとまったように、停滞にも運動は在るのであり、停滞は停滞のまま変質、流動することがあるのである。そしてフィリップはあまり写真を撮らなくなり、さらにあれほど書けていなかった「物語」をせがむアリスに語るようになる。
そして、アリスとフィリップの旅はまさに停滞=さまよいなのであるが、ここで、「停滞のままの変質」の存在を顕在化させるものが出てくる。それはフィリップが一人で映画の序盤に泊まったアメリカのモーテル“スカイウェイ”の鍵である。その鍵は、一人だったフィリップがアリスに出会い、その後二人で辿った鍵の出現以前の行程(いまや大西洋の反対側)をすべてを振り返り、包み込むことになる。そして、二人のさまよいが、生み出した出来事、変質、流動に気付かせてくれる。たとえば、飛行機で一緒に撮った翼の写真、アリスの寝顔、空港での母を待つアリスの表情、泣き声、ナイという否定の言葉。そして、このような出来事自体とともに、二人で過ごした時間のかけがえの無さを、つまり、これらの出来事を包む時間を、「今」という地点から振り返る形で観客にも気付かせてくれる。その喜びは、朝起きて、サンタからのプレゼントに気付くと同時に、その脇にそのプレゼントを包んでいたであろう、サンタのあの白い袋があることに気付いた子どもの喜びと似ている。
そして、終盤に出てくるアリスが持っていた、もっと小さい子どもの時の写真は、撮られた過去が不明な分、絶対的な過去に結び付けられることもなく、そもそもその子どもはアリスなのかさえ断言出来ず、、どちらかというと無から生じた浮遊した像のように見える。ここに至って、不変の過去のまなざしに結び付けられていた写真というものでさえもが、「今」の光の中で、旅=さまよいを始めることになる。アリスの持っているおばあさんの家の写真が、今の光の中で見ると、おばあさんを見つけるという目的には全く役にたたない代物であることが分かったとき、確固とした証拠のような扱いだったその写真も、宙を漂い始めるのである。

では、二人のさまよいは、ラストおばあさんの居場所が見つかり、目的地にまっすぐ向かう電車に乗ったことで、終わりを告げたのであろうか?確かに、電車はまっすぐに延びる線路の上を走るだろうし、画面は二人が通ることになる線路の先の地域も空中からの俯瞰で示す。明確な目的と、目的地が在る旅となってしまっている。しかし、今まで見てきたように、さまよいとは、徹底して「今」の中に存在することで未来がどうなるか、どう変質し流動するのか分からない「今」の状態に身を置くことである。よって、もはや、ぐるぐる同じ地点を回ることがさまよいでもないし、目的なくふらつくことがさまよいなのでもない。アリスの家族を捜す旅は終わり告げたとしても、同時に、だからこそ、二人の関係性の行方というその未来が来てみないと分からない、過ぎ去ってみて初めて理解できる潜在的な未来が開けるのであり、「今」の段階では、二人の関係性がいかなる行程をたどるのか分からない以上、新たな旅=さまよいが始まりを告げたのである。


玉田