『ミッドナイト・イン・パリ』(ウディ・アレン)

『アーティスト』『ヒューゴの不思議な発明』で展開された「アメリカ⇔フランス」間の壮大なノスタルジー合戦、を部分的に引き継ぐかのように見えながら、あくまでも本意は「ノスタルジーなんて現代に適応できない者が抱くルサンチマンじゃん、じゃんじゃん。」であるという、このひねくれ。
 それで、パリ。だが、『それでも恋するバルセロナ』のカタルニア地方が、『ウディ・アレンの夢と犯罪』のロンドンが、「そこがそこである」というクリシェを一歩も超えない(前者ならイベリア半島の陽光、後者なら湿った大気、雨)ということの徹底によってある種の感動(と嫌悪)に到達していたように、本作でもパリのクリシェは無限に、これでもか、と投げ捨てられていて(中学生の学芸会でのお芝居のような過去の有名人の「出オチ感」と中学生でも知っているようなパリの名所と美術品の羅列)、本作もまた、ウディ・アレンのフィルモ・グラフィーの重要な位置を占めているのであろう「○○地方を別に好きじゃない人が撮った○○地方観光映画」系譜にきっちりおさまっている、とひとまずは言えます。
 「何かやることに対する嫌悪とその嫌悪に対する嫌悪」を体現するアレン。は、それでもそんな救い難い自分を何とか救おうとして、勢い「1.自虐に走る2.愛に走る」という、大きく分けて二つの処方を施す、というのが『アニー・ホール』以来変わらない彼の姿勢(かどうかは5本しか見ていないので知りませんが)であり(それが個々の映画の出来云々に関わらず、醜い)、本作では1.が「知識人ぶった男」に、2.がマリオン・コティヤールとのパートに振り分けられていることは容易に見てとれ、とりわけ本作では2.が全面に押し出されます。
 愛を信じることなんてとっくの昔に諦めたアレン(の主人公)の前にいるのは常に「かわいい女の子」であり、パリの景色の綺麗さがペラッペラであったのと同じく、レイチェル・マクアダムスのかわいさもペッラペラ。「僕がちゃんとした愛を持てないのは彼女たちに深みがないからだ。」という中三男子みたいな言い訳、の処方としてマリオン・コティヤール登場するのはまさにその時であり、全登場人物中唯一の「人としての深さ」を持っていそうなこの女性の登場でアレン(の主人公)は人生最大の選択を迫られることになります。フレーム内に無駄な情報を入れない、フレーム外に重要性を与えない、という二重の防衛網を張ることで自己完結した空間を構成する中で、唯一、主人公とコティヤールの再会場面においてのみ、シュールレアリストのパーティ会場を旋回するカメラがわずか数秒ながらも空間内の特定の要素に還元されない映像を写し出してみせたのは、彼の逡巡(他の世界への可能性)を表していなくてなんでしょうか。(「えっ?こっちいっちゃうの?」っていう一瞬のハラハラ感は他のアレン映画であったのでしょうか?)
 とはいえ、結局は自分自身の二重の制約(フィアンセがいる、住まう時代が違う)の解消によってではなく、「ノスタルジーに引きずられる人間の凡庸さ」に責任転嫁して(「年寄りに愛する者を奪われる」という、時間構造を逆手に取ることで歪曲した形で現れた「若い男に愛する者を奪われる」というアレン映画のオブセッション)、逃げ口上を打つ、というせこさに回帰する、というオチは、最終的に本作は「やっぱりアレンの映画だ。」との安心感を抱かせるこそすれ、その経験が貴重なのか無駄なのかは全く分からないまま、私は、東京で最もペラッペラな高級感漂わせる映画館Bunkamuraル・シネマを後にしたのでした。

『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』

 説明描写を必要最低限にしぼり、観客に疑問を与える暇もないスピードで、あれよあれよという間にアクションを走らせることによって映画全編に爽快感をみなぎらせていた前作『M:I:Ⅲ』がまああれだけの出来映えだったのですから(敵のボスであるフィリップ・シーモア・ホフマンを移送中の際に起った橋の上での一連のシークエンスはこの10年で見られた銃撃戦では最も素晴らしいものの一つでしょう)、最新作『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』でアクションが時に停滞気味に見えてしまうのはある程度仕方ないことだと思います。
 とは言え、プロローグ的な位置づけの冒頭のシークエンスだって悪くないし、スピルバーグタンタンの冒険/ユニコーン号の秘密』での素晴らしい電線滑走の実写版とも言うべき、ベルトを使用してのトム・クルーズの電線滑走もなかなか見応えがあります。ジェレミー・レナーの身のこなしも素晴らしい。(若手の中では最も姿勢が良い俳優だと思います。)
 それでもなお映画が停滞して見えてしまうのは、彼らがやっていることがだいたい無駄だからだと思います。実際優秀なエージェントであるはずのトム・クルーズらは起りつつある事態に対して何かしら有効な手だてを講じることが出来ません。お決まりのフェイス・マスクも今回は失敗に終わり、核弾頭発射のための衛星のコードを聞き出しても、コンピューターがジャックされて全く意味なく終わることになります。遠くに確かに見えていたはずの砂嵐にさえ、それに巻き込まれるまでは何ら有効な注意を払うことをしません。(ビルの外壁をよじ上るトム・クルーズが砂嵐に気付くくだりは一体何のためだったのでしょうか?タイム・リミットを設定してサスペンスを盛り上げるにしてはあまり機能していないように見られます。)やはり上映時間132分はこの題材にしては少し長い。
 一方で無駄が功を奏している面も確実にあります。メンバーたちが色々な局面で使うことになる道具が、このシリーズでは毎回そうですが、無駄に工夫がなされていて面白い。特に相手の視線を読み取ってスクリーンに立体映像を映し出す装置とか、コピー機の機能を持ち合わせたコンタクトレンズなんかは見ていてとても楽しい。
 この無駄の功罪両面をどう受け取るかですが、まあ見てみて損はないのではないでしょうか。

『都会のアリス』(ヴィム・ヴェンダース)

フィリップはどうも直線的に動くのが苦手な人のようで、特に言葉をまっすぐ、屈折なく相手に伝えることに、時折の困難を感じており、たとえば、アリスの母親に通訳を頼まれると、今まで話せていたはずの英語につまり、どもり、順々に発しなければいけない音が一つの塊となって、声門にひっかかっているかのようだ。かといって、アリスと飛行機内で、アルファベットを組み合わせる言葉遊びもしていることから、直線状に流れるような言葉ではなく、入れ替え、組み替えられるような、塊としての言葉を楽しんでもいるようで、そういえば、どもるようなところでも、フィリップはあたかもアリスの母と飛行場の係員との通訳訳を楽しんでいるかのように、つまり「つまる」ことで通訳の存在に皆が手で触れられるように実体化しているようにさえ見える。写真ばかりとって、空間を画像と比較してばかりで、メモは書けども、直線上の文章を書けていないことで、怒られるところもそうであろうが、そこでおもむろにカメラを取り出し、その相手を撮るといった「失礼」な行為に写真を使っている。少年が「勝手に撮らないで」と言う場面もある。とにもかくにも写真を撮ることがあまり楽しそうな、豊かな行為としてフィリップに在るわけではない。撮られた空間は塊のように硬化し、その画像は、像が現れるのにかかる時間分だけちょっと後の空間と比べられることになる。フィリップはそうするのが好きなのだ。写真の中の像は固定化されている。今となっては、変質させることのできない過去のまなざしによって、見られた光景が写っているものとされる。しかし、はたして、写真を見るという行為はそのようなものなのだろうか?
アリス、アリスはガラスの回転扉とともに現れる。そのアリスと彼は旅することになるのだが、その途中、彼を写真に撮るシーンがある。「自分じゃわからないでしょ」と言って撮るのだが、そこでは、フィリップは自分が写る写真の表面にアリスの姿が反射して映っているのを見ることになる。つまり、写真は過去の光の痕跡、過去のまなざしの痕跡を、あくまで「今」の光に照らして見るのであり、その意味で徹底的に「今」に属するものなのである。彼の写真を持つ力加減により、写真は微妙に湾曲具合は変化し、それにより映るアリスの顔の歪み具合の絶え間ない変化が生じる。
よって、フィリップの写真行為は、過去のまなざしを絶対、不変とすることで、現在から過去を追放してしまっていたのかもしれない。写真は確かに、誰にとっても「停滞」かもしれない。しかし、アリスが回転扉をひたすら回すように、そしてだからこそフィリップの目にとまったように、停滞にも運動は在るのであり、停滞は停滞のまま変質、流動することがあるのである。そしてフィリップはあまり写真を撮らなくなり、さらにあれほど書けていなかった「物語」をせがむアリスに語るようになる。
そして、アリスとフィリップの旅はまさに停滞=さまよいなのであるが、ここで、「停滞のままの変質」の存在を顕在化させるものが出てくる。それはフィリップが一人で映画の序盤に泊まったアメリカのモーテル“スカイウェイ”の鍵である。その鍵は、一人だったフィリップがアリスに出会い、その後二人で辿った鍵の出現以前の行程(いまや大西洋の反対側)をすべてを振り返り、包み込むことになる。そして、二人のさまよいが、生み出した出来事、変質、流動に気付かせてくれる。たとえば、飛行機で一緒に撮った翼の写真、アリスの寝顔、空港での母を待つアリスの表情、泣き声、ナイという否定の言葉。そして、このような出来事自体とともに、二人で過ごした時間のかけがえの無さを、つまり、これらの出来事を包む時間を、「今」という地点から振り返る形で観客にも気付かせてくれる。その喜びは、朝起きて、サンタからのプレゼントに気付くと同時に、その脇にそのプレゼントを包んでいたであろう、サンタのあの白い袋があることに気付いた子どもの喜びと似ている。
そして、終盤に出てくるアリスが持っていた、もっと小さい子どもの時の写真は、撮られた過去が不明な分、絶対的な過去に結び付けられることもなく、そもそもその子どもはアリスなのかさえ断言出来ず、、どちらかというと無から生じた浮遊した像のように見える。ここに至って、不変の過去のまなざしに結び付けられていた写真というものでさえもが、「今」の光の中で、旅=さまよいを始めることになる。アリスの持っているおばあさんの家の写真が、今の光の中で見ると、おばあさんを見つけるという目的には全く役にたたない代物であることが分かったとき、確固とした証拠のような扱いだったその写真も、宙を漂い始めるのである。

では、二人のさまよいは、ラストおばあさんの居場所が見つかり、目的地にまっすぐ向かう電車に乗ったことで、終わりを告げたのであろうか?確かに、電車はまっすぐに延びる線路の上を走るだろうし、画面は二人が通ることになる線路の先の地域も空中からの俯瞰で示す。明確な目的と、目的地が在る旅となってしまっている。しかし、今まで見てきたように、さまよいとは、徹底して「今」の中に存在することで未来がどうなるか、どう変質し流動するのか分からない「今」の状態に身を置くことである。よって、もはや、ぐるぐる同じ地点を回ることがさまよいでもないし、目的なくふらつくことがさまよいなのでもない。アリスの家族を捜す旅は終わり告げたとしても、同時に、だからこそ、二人の関係性の行方というその未来が来てみないと分からない、過ぎ去ってみて初めて理解できる潜在的な未来が開けるのであり、「今」の段階では、二人の関係性がいかなる行程をたどるのか分からない以上、新たな旅=さまよいが始まりを告げたのである。


玉田

Barcelona en tranvía (Ricardo de BANOS,1908)

人間、カメラが見えるとはしゃぎだすのはどこでもいつでも同じなようだ。
カメラと同時に電車とも戯れる好奇心旺盛で勇気の有り余る人々をご覧あれ!

見てるこっちはヒヤヒヤものですが、いたって皆さん楽しそう。列車恐怖症からのスリル!ですね。

といいつつ、不思議な映画というか、映画の不思議というかカメラと電車の魔術の融合というか、なんでこうも人間、はしゃいじゃうんでしょう?


http://www.europafilmtreasures.eu/PY/245/see-the-film-barcelona_by_tram

『ザ・ウォード/監禁病棟』(ジョン・カーペンター)

ネタばれ必至ですが...。

多重人格障害の主人公の葛藤を、それこそそれぞれの人物の、目に見えた形でのぶつかり合いによるアクション映画として成立させてしまうところが素晴らしい。

しかも最初5人の女の子が一堂に介してからまだ話がよく掴めないけど一人ずつ殺されていく中盤あたりまで、空間やその移動を水平に撮ってそれぞれの女の子たちをある種等価なものとして捉えていて、話の終盤に複数の人物が一人になっていく過程で垂直の動きを導入していく、って相当論理的に撮ってるなって本当に感動しました。

その垂直の動きが最初に導入される、あの亡霊が女の子の首をナイフで一閃する動きは、これぞ活劇!!と興奮間違いなし。必見。

『スクリーム4』(ウェス・クレイヴン)

 冒頭、「何のホラー映画見ようか?」とか相談している女の子二人のうちの会話が切り返しで捉えられる。その際、キッチンの側にいる女の子を写した画面で彼女の傍らにはナイフがしまっている台があり、その不気味さが一瞬私たちを不安にさせる。しかしすぐさまカメラは彼女が会話を交わしているもう一人の女の子の方へと切り返し、私たちの視界からナイフの台は消えてしまうため、私たちはその不安は杞憂であるかもしれないと思い直す。しかし再びカメラが切り返すと、今度は彼女はホラー映画の殺人シーンについて語りながら傍らにある台から一本のナイフを取り出す。その彼女の姿を目にし、さらにナイフが取り出される音を耳にした者は先ほど感じた不安はやはり間違いないことを確信する。「彼女たちは殺されるに違いない。」と。
 『スクリーム4』の魅力とその恐さとは、こうした、間違いなく何かが起るに違いないという確信ともしかしたらそれは間違っているかもしれないという感情の揺らぎの中に観客を巻き込むことによって成立している。例えば冒頭の次のシーン。別の二人の女の子たちがソファに座り、それまで一緒に見ていたホラー映画についてあれこれ互いに言い合っている。そんななかで映画をけなしながらしゃべりまくる方の女の子が冷蔵庫から持ってきた缶を開ける音が異様に大きい。それを見た(聞いた)観客はやはりこの後すぐ何かが起ることを本能的に直感するが、それをうなずかせる明らかな理由がある訳ではない。故に観客は「これはどうなのかな。」「なんかこわいな。」という感情とともにその後の画面を注視することになる。そして予想通り惨劇が起るのを目の当たりにしてやはり先ほどの確信が間違っていなかったことを確認するのだ。
 確信とその揺らぎ。この微妙な感情。これを人はサスペンスとも呼ぶ。この冒頭の二つのシーンで本作に招き入れられた観客は映画全編を通してこの微妙な感情を辛抱するレッスンを強いられる。電話が鳴るたびに、風鈴の音が響くたびに、犬の鳴き声が聞こえるたびに、私たちは「またか。」という思いを抱きながらこの不安な感情とともに過ごさねばならない。しかし元来ホラーを見に行くとは「恐い。けど見たい。」という、このような感情を楽しみにいくものではなかったか。とすれば『スクリーム4』はそれにはもってこいのホラー映画である。必見!!

『ザ・ファイター』(デヴィッド・O・ラッセル)

最高!最高!最高!ととりあえず芸もなく連呼しちゃうんですが、実際どう見たって最高なんだからしょうがないでしょう。


まず役者陣の顔つきがたまらない。マーク・ウォルバークの出す甲高い声もハマってるし、とかく映画を重くしがちであんま好きじゃないクリスチャン・ベイルも今作では自分では気付かない痛々しさみたいなのをうまく表現してて大変素晴らしい。(あんな顔してあんな声であんな強気にしゃべるんですから!)お母さんのメリッサ・レオを始めとする女たちも皆圧倒的。この女性陣がしゃべりまくりののしりまくり暴れまくりで凄いんですが、それと対のような形で配置される父のジャック・マクギーとセコンドのミッキー・オキーフという寡黙な男二人の存在感も凄く良い。ヒロインのエイミー・アダムスの相手を突き刺すような目つきも印象的。



映画の中盤、話の転換点でマーク・ウォルバークがボクシングへの復帰を決意してエイミー・アダムスを自宅のアパートに残したまま黙々とジムへと歩いて行く姿の素晴らしさに涙腺が緩んでしまったんですけど、それは後にクリスチャン・ベイルエイミー・アダムスの家へと歩いて行く姿へと重ねられることでなおさら感慨深いものになります。それでまたこのクリスチャン・ベイルエイミー・アダムスの二人のシーンが良い。切り返しがばっちり決まってカサヴェテスじゃん、とか思ってしまってああ、もうダメと、私は涙を抑える事が出来ませんでした。



で、このクリスチャン・ベイルエイミー・アダムスのシーンに顕著なようにこの映画では軒先でのシーンが多く出てきます。誰かが誰かの家に行くっていう場面で物語を進めて行く。私の記憶によれば全部で8回出てくると思うんですけど、それぞれ色んな撮り方してて全部素晴らしいです。同じ場所に人が立っている。でもそこにははっきりとした境界線(扉、窓)がある。その境界線をどういかすか。こちらに引き寄せるのか、向こうに行くのか、あるいはインターホンで追い払うのか、はたまた裏口から逃げてしまおうとするのか。考えてみれば当たり前なんですけど、軒先にはこういう面白さがある。その境界線を巧みに活用しながら人間関係を描いているのが大変面白かった。



とかく単調になりがちなボクシングの描写も良いです。もうラストね、マーク・ウォルバークが反撃し始める時私は思わず座席から立ち上がって喝采を送りたい気分になりました。とりあえず今週金曜まで早稲田松竹でやってるんで未見の方は授業さぼってでも駆けつけて下さいまし。


石田