抱擁のかけら(ペドロ・アルモドバル監督)

映画が投射されるスクリーンは、観客たちを虚構の世界へと包み入れる膜でもあり、観客たちをそれぞれにとっての現実へと留めたままにする壁でもある。
ペドロ・アルモドバルは『抱擁のかけら』の一場面で、スクリーンのその両方の側面を、ぶつけ合わせる。

そう若くはない実業家の男が、映画に出演することに決まった恋人ペネロペ・クルスが撮影中に浮気をしないか監視するため、前妻との間にもうけた息子をペネロペに付きまとわせる。男が心配した通りペネロペはその映画の監督と恋に落ち、息子はビデオカメラでペネロペと監督との恋を撮り続ける。
男は、音を拾うことができないそのビデオカメラの映像を座って見ながら、ペネロペが話している内容を読唇術で読み取ってもらうことしかできない。

ある日、ペネロペは、カメラを持って執拗についてくる男の息子に、とうとう耐えかねて殴りかかる。その様子も当然ビデオカメラに記録されている。殴りかかったあと、いくぶん気を取り戻したペネロペがカメラ(の向こうにいるであろう男)に向かって言葉を発しようとする。
その様子が記録された映像を男が見ている部屋に、ペネロペが現れる。
男は、映像として映し出される過去のペネロペと、今ここにいて映像の中の自分がカメラに向かって発した言葉を、実際に男に向かって読み直しているペネロペに、文字通り、挟み撃ちにされる。ペネロペは今や取り返しのつかない地点にいると、男はようやく理解する。

男をはねつける過去の厚みと、それを感じる現在。その埋めがたく、しかし近過ぎる距離。ばらばらにちぎられた写真を貼り合わせて復元すること……。
過去は取り返しがつかない。当然、取り返しがつかないのは過去が現在においてしか過去でありえないからだ。時間が過ぎることとは、そのもどかしさを感じることに他ならない。
もどかしさが、この映画を、偶然であり必然であるような抗えない流れに変え、126分という時間をあっという間に過ぎ去らせるだろう。



工藤鑑