インビクタス 負けざる者たち(クリント・イーストウッド)


 ラグビーとは「立ち上がる」スポーツである。タックルで倒されようとも選手たちは再び起き上がり、ボールを前進させていかなければならない。そこで「立ち上がる」事の出来ない者たちは無様な敗者として退場することを余儀なくされるだろう。
 『インビクタス』はまず始めに「立ち上がる」者たちの映画であると言える。主人公ネルソン・マンデラモーガン・フリーマン)は国内の諸問題を解決すべく、南アフリカ共和国の大統領として「立ち上がる」。ラグビー南ア代表「スプリングボクス」のキャプテン、フランソワ・ピーナールマット・デイモン)はチームメイトと共に「立ち上がり」、ラグビーW杯優勝を目指す。これは他の人物たちにおいても変わらない。映画の冒頭、釈放されたマンデラを乗せる車が道を通り過ぎるのを見つけた黒人の子供たちは歓喜の声を上げながら飛び跳ねる。あるいはスポーツ評議会の面々はラグビー南ア代表の変革を訴える人物に手を高々と真上に挙げることによって呼応する。このように、この映画では抑圧からの解放、新たな未来への変化を希求する人物たちはすべて垂直の運動によって描かれる。
 しかしそれだけではいけない。アパルトヘイトのしこりが依然として残るこの国では人種間の融和が達成されない限り真の変革など不可能なのだ。(実際この映画は釈放されたマンデラの車を柵越しに立って見つめる白人と黒人、ラグビー南ア代表の試合を観戦する白人と黒人の垂直運動の差異を簡潔かつ見事に示している。)
 ここでこの映画の二つ目の賭けが明らかになる。それは端的に言って、水平運動によって個々の(あるいは人種間の)垂直運動を結びつけることにある。マンデラがボディーガードを白人と黒人で編成したことは、立ちつくすという彼らのアクションを人種間で共有させるためであった。また彼がラグビーを南ア融和の象徴にしようとしたのも、ラグビーが横へ横へと広がりながら行われるスポーツであるからに違いない。ラグビーはその場で立ち上がるだけではなく、横にパスをしなければ決して前進できない。一人の「立ち上がる」というアクションは横にパスを送ることによって別の者の走るというアクションに結びつけられていく。(あるいは選手たちが横いっぱいにスクラムを組むことによって、一人のキッカーのアクションは可能となる。)個々のアクションが横いっぱいに共有され、ピッチに無限の拡がりをもたらした時、選手は勝利を獲得する。そしてそれに呼応するかのように観客は席を立ち、隣の者と肩を組んで歓喜の声を上げる。そこでは最早人種の違いなどは問題にはならず、人々は一体となるだろう。
 イーストウッドの最新作は垂直と水平の運動を巧みに描きあげ、縦横無人の<拡がり>を獲得している。この<拡がり>を自由や平等といった言葉に置き換えてもいい。ただ、ラグビーの試合という小さな出来事でこれだけ大きな物語を見事に描ききっているのだから、これに涙せずにいることは難しい。

石田晃人