バレンタインデー(ゲイリー・マーシャル監督)

インド料理が好きだ。しかし、インド料理屋というのは一体何なのか。
インド料理を拵えて客に提供する店の総称ということにでもなるだろうか。だが待とう。そんなダラけた定義が許されるほど世の中甘かっただろうか……?
何が言いたいのか。簡単だ。すなわち、孤独という言葉を抜きにして、インド料理屋について語ることなどできるとでも思っていたら、大間違いだ、と。
考えてもみて欲しい。不安も悩みもない者がインド料理屋に行くことなど、ありうるだろうか?あの薄暗さのせいだろうか、いつだって愛嬌のあるインド人の店員たちゆえだろうか、インド料理屋に孤独の影を感じずに済ませることなどできないのだ。
この映画には大きく分けて二つのものが出てくる。一つには、過酷な「真実」に当惑する孤独な人々。もう一つはインド料理屋だ。この映画でのインド料理屋の役割は、「真実」に打ちひしがれた孤独な者たちが孤独なまま集まり、ひとときを共に過ごし、また孤独へと帰っていく通過点である。しかし、インド料理屋を出たあとの孤独は、インド料理屋に入る前の孤独とは性質が違う。どういうことか。
「真実」を見つめることに慣れていない未熟さの自覚が、人を孤独にし、インド料理屋へと向かわせる。しかし、インド料理屋は「真実」に直面した者の傷を癒そうとするような愚挙は犯さない。「真実」をかっ捌き、スパイスまみれにして、高熱の釜で焼き上げるのだ。お好みならばそれを「タンドリー真実」と呼んでも良い。こんがり、スパイスまみれの激辛の「真実」を胃袋に納めること。ハート型のくす玉を叩き、恨みを大声でぶちまけること。集まったみんなでインド映画風に歌い踊ること。それをこそ、インド料理屋は可能にする。そうしてインド料理屋を後にする登場人物たちの顔には、一握りの勇気が滲んでいないだろうか。
ここで、この映画のマハラジャ(監督)であるゲイリー・マーシャルは、『プリティ・ウーマンからして、インド料理のようなジュリア・ロバーツから、凡庸で低俗なフランス料理野郎でしかないようなリチャード・ギアが「真実」に目を向ける勇気を教え込まれる映画を撮っていたのではないかと思い当たる。
この『バレンタインデー』では、チョコレートなど脇役以上のものではない。たぶん、すでにカレーの中に溶かされている隠し味でしかない。だから、あの少年が、フランク・ザッパを知っている唯一の同級生だというあのインド人の女の子に花束を捧げるシーンが、あるいはバレンタインデーのパーティーを終えて片付けをするインド料理屋店内の俯瞰ショットが、さらには最後の場面でアシュトン・カッチャーとジェフリー・ガーナーが「下手」なキスをする橋の下を流れる川が、それぞれどれほど美しかったとしても、それはあくまでインド料理的な美しさである、ということになるに違いない。
断言しよう。この映画は、インド料理屋をかつてなく正確に、この上なく美しくキャメラに収めたことで記憶されるだろう。



工藤鑑