第七天国(フランク・ボーゼージ監督)

 まず、映画とはあまり関係ないことを書きます。
 『ゾンビ』『デス・プルーフ』と、爆音映画祭の煽りを受けてグラインドな偏りが生じた「サイドヴァーグ的movie review」に秩序を取り戻すため――と書くと誤解されそうですが、私はタランティーノも『デス・プルーフ』と『ジャッキー・ブラウン』に限っては好きですし、ジョージ・A・ロメロに至っては個人的に師と仰いでいる部分さえなくはありません。(その意味で前々記事の谷口一真氏の指摘は的を射ているかもしれません。)『死霊のえじき』はTシャツも持ってます。去年公開された『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』には心の底から感動しました――ロメロはいつだって映像の倫理を誰より真剣に考えている――。という具合です。
 しかし、それでも私は正反対とも思える選択をしてみようと思うのです。

 『第七天国』。フランク・ボーゼージ監督。ちなみに「ボーゼージ」はBorzageと綴りますが、「ボザージ」やら「ボゼージ」やら日本語表記が統一されず、今年二〇〇九年の三月にフィルムセンターで『海ゆかば』(これがまた良くできた映画なのですが)が上映されたときにはとうとう「ボザーギ」という読み方まで登場し、混乱の一途をたどるばかりです。
 そのフランク・ボーゼージ監督のメロドラマといって良いのだと思いますが、要は男女が出会い、周囲の状況ゆえに愛し合いながら別れなければならなくなり、最終的に再び出会う、しかし何らかの犠牲を伴って……という基本構造のドラマですね、で、まず『第七天国』、これがどんな意味かというと、東西南北があって、地があり海があって、天がある。これらしいです。淀川長治氏が特典映像で仰っていたのですが。それがこの映画でどのように生きてくるかと言いますと、親がいなくて、姉と二人で暮らしている「ディアンヌ」という女がいる。もちろんお金はなく、ひどい暮らしぶり。姉はアル中のような感じで、「ディアンヌ」がグズグズしていると鞭でたたく。「ディアンヌ」があるときまた鞭で叩かれるのから逃げようとして外に逃げ出したとき、ある男が「ディアンヌ」を救う。男の名は「チコ」。下水掃除人である。「チコ」は「何でこんな女を」みたいなことを言いながら「ディアンヌ」を家に連れ帰る。「チコ」が「ディアンヌ」を案内して自分の部屋へ――階段を上っていく二人に合わせてスーッと上昇するカメラ……それが七階なわけです。
 最初は仕方なく一緒の部屋に置いてやっていた「ディアンヌ」に「チコ」は次第に恋をし、二人は愛し合うようになるわけですが、そのとき戦争に召集されて、離れ離れの戦場でも「チコ」と「ディアンヌ」は二人で決めた時間である午前十一時に相手のことを思い合うが……という話です。
 これ映画ではよくある話なわけです。でも私は感動するし、涙が流れるのを抑えられない。多分これがこうなってああなるんだろうなあ……というくらいの予想はつくわけです。しかし実際に目に映るもの、その映像は何度見ても常に予想外であると言うことができる。
 なぜか?わかりません。ある映像のすべてを認識することはできないとして、映像のインデックス性を根拠に挙げることができるのかもしれないし、映像の展開に私たちも巻き込まれるという、映画の本質的なサスペンス性を挙げることもできるかもしれない。でも私にはそれ以外の何かが働いているとしか思えないときがある。映画は把握しつくせない!まさにその瞬間、映画は途方もなく莫大で恐ろしい対象に転じ、また、それゆえ一層魅力的になる――あらゆるシネフィルはマゾヒストの性質を持っているでしょう。
 ところで、現代の権力――<帝国>と呼ばれもする――は反権力分子たちが「抵抗」を試みる可能性さえその基礎構造に組み込んだ、非常に莫大なものです。つまり私たちは、一見抵抗のそぶりなど見せないように「下水掃除人」のように生活を送りながら、「七階」のような見えないところで抵抗していく必要がある。廣瀬純の言うように、「複数の持続を生きること」が必要なのかもしれません。
 戦場にありながら「チコ」は「ディアンヌ」と、彼女と過ごした「七階」を思う。「ディアンヌ」は軍需工場にいながら「チコ」を思う。この時、「七階」というのは単に想像された場所に留まらず、二人がディゾルブで重なるようにしてつながるように、映像の上では実際の場所と同じ機能を持つ。それは「この場合二人にとってはそうであるということにする」能力、言い換えるならばフィクションの能力であり、「思い込み」の能力なわけです。上で述べたような今ありうべき抵抗にもっとも親近性があるのは、ことによるとフィクション、さらにことによると中でも映画なのではないかと思います。
 「チコ」を見習うこと、「思い込む」こと、映画を見ること――視力を失って帰ってきた「チコ」と「ディアンヌ」は最後に再び結ばれるでしょう。「チコ」にとっての、戦争に出向く前に「ディアンヌ」の姿を目に焼き付けたあの部屋と、「ディアンヌ」にとっての、目の前に「チコ」が今まさに帰ってきたこの部屋が、ここで出会い、並存する――二人にとっての、同時に二つの場所になるのです。
 この瞬間を豊かと言わなくて、なんと言うのでしょう。


工藤鑑


※ちなみに「TYPIST」もよろしくお願いします。新しい記事を近日アップ予定です。

青山真治の『こおろぎ』誰かなんか書いてよー。