千と千尋の神隠し

なんてことはない、金曜ロードショーでたまたま観ただけなんですが…。一真です。春日ではありません。

この映画は、典型的な小学生である千尋が、わけのわからん世界に親に連れて行かれ、仕事社会の中で精神的成長をしていく、という話です。

前の「ゾンビ」の項でも書いたんですが、僕は今「成長」のよくわからん痛みに悩まされております。
成長ってなんでしょう?みなさん。この作品を通して、何かしら答えっぽいものを探してみたいと思います。

この映画の登場人物は、大きく分けて、大人と子供の二種類に分けることが出来ます。当たり前ですが。
子供は千尋と坊とカオナシ。あとはみーんな大人です。

両者の違いは、仕事をしているか否か。
だけではなく、精神的成長(ごめんなさい、ひとまずスルーして下さい)をしているかどうか、も大きな要素です。

人は新しい環境に入ったとき、まず、自分の過去の経験を思い出し、適用出来そうなものを選び、なるべく人に怒られないように振舞います。
しかし、千尋は社会経験が少ないために、始めのほうは叱られっ放しです。
例えば、ハキハキと挨拶をしなくてはならない。お世話になった人にはお礼を言わなければならない。など、20を過ぎたニートも、なかなか出来ないようなことを生活の一部として学んでいき、最終的には、とても冒頭の人物と同一だとは思えないほどの自立心を獲得します。

湯婆々に溺愛されていた坊も、ネズミに変えられ、千尋と旅をする過程で、過剰な庇護に対する反発心を見せ、他人のために労働し、最終的には、交渉の場において、自分の立場を理解し、利用する狡猾さすら獲得します。

カオナシも、…まぁ初めはえらい子供っぽかったけど、千に振られて、どん底に落ちて、銭婆々のもとで新しい自分を作ろうと決断しました。

対して大人たち…まぁ誰でもいいんですけど、湯婆々でしたら、千尋や坊に対する見方が変わったくらいなんで…、成長…ではなく、認識の変化と呼べるでしょうか。イメージとしては、頭の中に人物評価カテゴリーがあって、千尋のカテゴリーが「使えないやつ」から「思いのほか出来るやつ」に変わったくらいなもんでしょう。
湯屋で働いてる魑魅魍魎も、だいたい同じです。

では、成長と変化の違いはなんでしょう?

成長とは、環境に順応するための変化である…とは言えないでしょうか。
つまり、もし千尋が数日働いても、挨拶もろくに出来ないダメな子だったら、ハクが湯屋のみんなに千を紹介した時のように煮るなり焼くなりされていたでしょう。もしくは湯婆々に子豚にされていたでしょう。
僕らの住む世界で人を煮るなり焼くなりしたら重刑は免れませんし、子豚に出来たら一生研究所でパラダイスヘヴンでしょう。
…現実に置き換えれば、新入りが来て最初のほうは、一部地域の鬼畜を除き、大抵の先輩が叱ってくれたり指導してくれます。
その期間に新入りは、仕事を覚え、空気の読み方を知り、いじられ役の先輩の扱いを知り、先輩を篭絡するなどして、自分がその環境に居やすいように、自分を変化させます。(最後のは例外ですが)
しかし、新入りが一定期間経っても、仕事を覚えなければ、今の時代、ソッコーでクビになりかねません。空気が読めなければ、仲間外れになり、いじられ役の扱いを間違えると、反対に彼からキツーイ扱いを受けます。(いじられ役ほどプライドの高い人種はいません!)先輩を篭絡できなくても…別にいいです。

また、坊の例を出せば、成長とは、新しい快感を覚えること、とも言えます。
彼は、旅の中で、自分から能動的に行動する喜びを知ります。
誰かのために何かをする喜びを知ります。

共通するのは「新しさ」です。新鮮さ、フレッシュ!であるとも言えます。ちなみにさまーず三村のギャグの中で、僕はこのフレッシュ!が一番好きです。
同じ日常(仕事)を繰り返すということは、もちろん、それによってしか到達出来ない高みもあると思いますし、…まぁ推測でしかないので過分な列挙は避けます。
反対に、年少期のような新しい世界に直面した時の不安と期待の入り混じった(どっかで聞いたことあるフレーズだな…)気持ちには滅多に出会えなくなります。

千尋にとっても、観客にとっても、ただひたすら新鮮でしかない町並み、空間、住人、仕事、生活。
長ーいことアニメ作りという日常に専心してる大人の夢物語に思えてなりませんでした。

なーんかすごくいろいろ足りない気がしますが…今回はこのへんで。



あ、あと、僕はリンのキャラというか声が大好きで、声優誰だろうと調べてみたら、
玉井夕海さんという方でして、調べてみると…
ナント!もんしぇんの主演でした!!

奇縁というか、奇縁ですね。。



ちなみに僕は、青山真治より宮崎の爺さんのほうが好きです。ごめんなさい。