ZOO

再び尾崎です。映画のレビューというのは難しいですね。映像と音が同時に来るからというのはその一因としてある。もっと細かく言うなら人物(キャストとそれ以外)、背景(ロケーションとか)、物、セリフ、効果音、音楽などでしょうか。情報という意味では、さらにそこに演出が入っているのかどうか、ストーリーの展開、時間の流れ(物語内と現実時間)とか……まあ、諸々気になってしまって頭が追い付かないのです。
で、何が言いたいのかというと、そもそも「映画」と言ってしまっていますが、何がそれを「映画」たらしめているのか未だによくわからない。そんなことをこの『ZOO』を見て考えたわけです。

『ZOO』という作品は乙一原作の同名短編集(文庫版では『ZOO1』)から五本を抜き出し、別々の監督が手掛けた短編映画集です。きっと少なくともヴァーグの人はあまり見てないんじゃないかと思います。そもそも乙一ってだけで好き嫌いがすっぱり分かれますし、所謂原作モノである点もネックでしょう。さらに悪いことに乙一原作の映画はだいたい評判が悪いです。なんか最初にこんなこと書くのもどうかと思ったのですが、ま、食わず嫌いはせずにという意味も込めて、ね。

というか、たまにはまずいものでも食べないと、本当においしいものに出会ったときにその良さが分からないかもしれませんよと。


さて、まず内容についてですが、基本的には原作とあまり変わっていません。まずこの時点で文字作品を映像作品に翻訳する困難さがうかがい知れるわけですが、今回はそれにはノータッチということで。
良くも悪くも原作に忠実なこの映画(ということは原作を知っている僕はストーリーに注目せずに見られたということです)、ではどこに注目してみたのかというとまず役者とその演出でした。
とてもドラマチックでした。語弊がありますね。とても「ドラマ」的だったという意味です。そもそも出ている有名な役者が松田美由紀市川由衣須賀健太杉本哲太などドラマっぽい。演出に関しても「世にも奇妙な物語」的な領域を出るものはなかったと思います。
その平平凡凡ドラマの中から抜け出ていたのは「陽だまりの詩」と「ZOO」の二本だったでしょう。
「陽だまりの詩」はアニメです。アニメについてもいつか思うところを語らせていただきたいと思いますが、今回は割愛します。ただ、この作品の特異なところはモーションキャプチャーを用いて役者の動きを拾い、アニメに書き直し、さらにそこにアフレコをしているという面倒くさい方法を用いていることです。この方法でいいなと思ったとこは、監督⇒役者、役者⇒監督という演出のやり取りというかフィードバックが円滑に自然に行えるところです。うらやましいくらいです。つまり、役者は監督の演出に沿って動きを付けるわけですが、しかし監督もまた役者が動いてくれた以外の動きをアニメに起こすことができないわけです。お互いに縛られながら、それでもアフレコという手順があるから落ち着いてそのフィードバックをもとにさらに声に演出しなおすことが可能となる。これが実写だとたぶん忙しくてまともにすることはなかなか難しいんじゃないかと思います。そもそも絵コンテの占める重要度の割合が全然違いますしね。
そしてやっとこさ「ZOO」です。これは映画っぽい。しかも自主映画っぽい。それはわざとであろう画像の粗さや、これもわざとに違いないストーリーのぼやかし方、役者を意味深に見せる演出に起因している。つまり、監督の意図としては、たぶんですが、「わざと」自主映画っぽくしているわけです。その自主臭さは確かに鼻につく。しかし、この作品が五本のなかで最も「映画」っぽいこともまた事実です。


で、結局何が言いたいのかというとですね、「世にも奇妙な物語」をただ映画館のスクリーンで上映したからといって即それが「映画」である理由にはなりそうもないなと思ったのです。「映画だから」と言い張るだけではやっぱりダメだと。当たり前のことですがね。

要するにですね、十分〜二十分程度の「映画」と呼称する作品を撮っている我々からすれば、比較しやすいと思うのです。二時間の作品を撮るのは大変だ。では二十分のなかでどう「映画」を撮るのか。商業映画といっても所詮はこの程度のものもあるのか、と。
何が映画かわからないなら、一個ずつ消去法をしてみるのもひとつの手だと思うのです、僕は。


我ながら「」つきの映画という言葉はやはり鼻につきますね。



あ、そうそう。「ZOO」のDVDは本編だけ見て返したらもったいないです。メイキングを見ると「ああ、商業映画って言ってもこの程度の機材と人員でやってることもあるのか」と、業界の苦労を垣間見、さらに自分たちへの励みになること請け合いです。