容疑者Xの献身

尾崎です。原作モノ第二弾ということで、『容疑者Xの献身』です。見たことはなくても原作を読んだ人や、名前だけ知っている人、テレビシリーズ『ガリレオ』は知っているという人は多いと思います。
ちなみに僕は『探偵ガリレオ』シリーズの原作は全て読んでいましたが、テレビシリーズはちょいちょいしか見てません。

しかし、『ガリレオ』のテレビシリーズが先行し、それにこの『容疑者Xの献身』が付随するような形で映画化されたのは、本作にとっては不幸なことだったと思わざるを得ません。
この作品は『踊る大捜査線』や『HERO』の映画版とは一線を画すにもかかわらず、テレビシリーズのイメージに引っ張られていることを遺憾に思います。


そもそも『容疑者Xの献身』はただの推理小説ではありません。推理小説に見せかけた、倒叙推理小説の皮をかぶった、愛の物語です。恋愛小説と言うなかれ、愛の物語です。
確かにミステリ小説としてのトリックや伏線の配置などは秀逸である(ただし、東野圭吾の文体の甘さなど問題点ももちろんある。エンターテインメントとしては、の話)。ミステリとしても極上でありながら、しかし、最大の焦点は「愛の形」と「エゴイズム」だ。
そしてそれを語るにふさわしい精密で、誠実で、正確なカメラワークはまるで石神の人格を投射されたかのようだ。
だからこそ、冒頭の電磁砲の実験は全く不要であると言わざるを得ない。あのシーンはテレビシリーズの視聴者と、それを知っているが見たことはない人々への湯川学と内海薫の説明描写であって、つまりテレビシリーズの説明だ。そんなもの、この物語には全く必要ない。普通に石神の描写から始めるべきだろう。
湯川と内海がちょっといい感じになる空気を醸す必要も全くない。そんなものは原作者と石神に対する侮辱でしかない。
そしてその後もテレビシリーズに引っ張られた演出、音楽、キャラクター、設定が続々登場する。そんな軽妙とすら表現できないえせコミカルはこの物語には必要ないのに。
主人公が湯川学であるかのように描かれていることも惜しいなと思う理由の一つ。とくにラストシーン。湯川が泣く描写は必要ない。泣くのは石神と花岡だけで十分だ。花岡さえももあんなにわんわん泣いてはいけない。この物語で愛と誠実を貫いたのは石神ただ一人なのだから、他の人間は自分を軽くするために、もしくは同情のために涙を流すことは許されないはず。
テレビシリーズがこの作品にとっては不幸だというのはそういうことです。多くの人に見てもらうために必要以上にステレオタイプにはまっている。もう一度言いますが、この物語はただのミステリーではない。愛の物語だ。

もちろん、映画版になって良くなった点もある。石神役の堤真一や花岡役の松雪泰子は思いの他はまり役だったし、追加された雪山のシーンは湯川の揺らぎや石神の人生観が描かれていて良かった。


「愛の形」というのは比較的はっきり分かると思います。この事件そのものが石神の愛の表現の仕方だったわけです。
もうひとつ。「エゴイズム」がこの作品に奥行きを与えている。
例えば石神のエゴイズム。愛する人のために全く関係ない人を殺してしまうほどの強烈なエゴイズム。相手の幸せをただひたすら考えるのも、それによって自分が幸せになるというある種のエゴイズムでしかないわけで。ただ彼のエゴイズムは純粋だ。その純粋な愛情はときに人を不幸にする。
例えば花岡のエゴイズム。自分たちのためにとっさとはいえ人を殺してしまうこれまた強烈なエゴイズム。そしてそれを助けてくれたはずの石神を疑ってしまうエゴイズム。何よりも、真実を全て知った後で、幸せになってほしいという石神の要求を無視して警察に出頭し、自分も罰を受けたいという残酷なエゴイズム。彼女のエゴイズムは衝動的で節操がなく、そして浅はかで優しい。とくにラスト、警察に出頭するというのは(まあ、ミステリのお約束とはいえ)あまりに残酷な優しさである。彼女は石神の努力や犠牲、そして彼の人生そのものを台無しにしたのだ。その自意識過剰な優しさはときに人を不幸にする。
例えば湯川のエゴイズム。興味から事件のことを調べ始め、真実にたどりついてしまい、あまつさえそれを花岡らに打ち明けてしまうまっすぐなエゴイズム。その真実をつかもうとする姿勢はときに人を不幸にする。

そしてそれらが全て集うラストシーン。たまんないわけですよ。小説版はもちろん、映画版でも涙を流しました。いや、実際見るまでは「まさか、そんな(笑)」だったんですけどね。


読み返してみると、内容知らない人にはちんぷんかんぷんですね。まあ、普通に楽しめると思うので是非見てください。