不知火海に一隻の船が浮かんでいる。夫婦であろうか、一組の男女が漁に勤しんでおり、カメラは彼らの労働の様子を画面に丁寧に映し出す。その画面に男の方の声がかぶさり、彼は水俣病で既に亡くなった父親について語る。映画『水俣—患者さんとその世界—』の始まりだ。舞台は1970年の水俣市。映画は69年にチッソを相手取って訴訟を起こした29世帯の水俣病の患者さん達を戸別訪問していく形で撮影されていく。彼らの証言を通して画面は展開されていくのだが、その内容は陰惨さを極めている。死後娘の頭を解剖したら脳の大半が病で犯されていたと語る母親や、機械に異様に好奇心を見せる胎児性の少年。あるいは水俣病が理由で嫁ぎ先から追い出されてしまった女性の患者さん等々。土本典昭自身が日々露になっていくこうした内容に衝撃を受け、未だ明かされていない患者さんの世界に不安と恐怖心、そして幾ばくかの好奇心を抱きながら撮影を進めていった事は想像に難くないが、その作り手側の心情は、「基本は取った順につなぐ」という監督の方針のもと、画面に反映され、やがて時空を隔てた観客へとも伝わっていくだろう。観客である我々はその都度明らかになる事態にショックを覚えながら、更なる事実を知る事を渇望し、画面を注視する事になる。映画はいつか終わってしまう。しかし次に何が起こるかまだ観ていたい。作り手側の発見のプロセスと観客の発見のプロセスを重ね合わせる事で観客をこうした感情に陥らせる事。この点をこの作品のポイントの一つとして挙げる事が出来るだろう。そして我々の注視する画面にはそれ自体悲惨と言うしかない現実が映し出されていく。
 しかしそれだけではない。それだけならこの映画は凡百の水俣を巡る映像と変わりないし、我々はあらかじめ知っている水俣病という悲惨なイメージに映画の映像を重ね合わせ、ある種の安定した世界に安住するだけになってしまうだろう。そこにあるのは水俣病を自分は見た、知ったという満足感から来る同情心だけであり、映画を真に撮る/見ることの試みが欠落してしまう。ではこの映画の試みは何なのか。そのために今一度冒頭のシーンに立ち戻ってみよう。
 ファースト・ショット、海に浮かぶ船がロング・ショットで捉えられる。次に船の櫂がアップで撮られ、カメラはそのまま漁をする男女二人を、左手前からフル・ショットで捉える。その次に今度は漁で網を引く二人が右真横から撮られるのだが、ここで手前の男の網を引く腕がせわしなく画面を横断する様が注意を引く。そして次のカットでは男の網を引く手がクローズアップで捉えられ、その後男の顔のアップにカメラは移動し始めたところで、男のインタビューの声が入って来る。この冒頭の4カットはロング→フル→ミディアム→アップというそれ自体状況説明として問題なく収まってはいるが、ここで注視しなければいけないのは、二人の様子というものが手という一部分までに還元されている事だろう。漁師である彼らは網を下しては引き、かかった魚を手で取り上げていく。彼らの労働、生活は常に手を行使する事で成り立っており、映画は冒頭から彼らの有様を簡潔かつ見事に撮り上げてから、彼らの声を聞かせる。この映画の撮影前に「彼らは患者である前に漁師である」という言葉を聞いて、「人間を撮れればいい」と思い立ったと言う土本典昭は、専ら患者さん達の身体に寄り添っていく事で彼らの「人間」としての有様を描写していく。祭りか何かなのだろうか、船を多くの人々が一生懸命漕ぐ人達や、民謡に合わせて踊る人々、タコ漁のおじさん等々。彼らは魅力的に身体を動かし、実に活き活きとしている。その活き活きとしたとした身体を伴った生活が、人為的な病によって奪取されてしまった事に思いを馳せる時、我々の感じる悲惨さはいや増す事になる。しかし土本典昭はそれでも患者さん達の身体を悲惨さのイメージの中に閉じ込めたりはしない。患者さん達のその先の身体も記録する事によって、かすかな希望の光を見出していく。ここに中村秀之が指摘する様に、「〈かつてあった身体〉を映画的に請け戻すこと、救出すること、あるいはその名誉を回復する」(1)という土本典昭の試みが浮上する。例えば病のためうまく話す事が出来なくなっているおじいちゃんの患者さん。彼はそれでも必死の身振りによって土本典昭とのコミュニケーションを図っていく。あるいは聴覚をあらかじめ失っている胎児性患者の男の子は、それでも自らの手によって音を感知しようと努め、スピーカーに手を触れる。彼らはある不自由さを身体に抱えていながらも、それでもまだ自らの身体に新たな可能性を見出す事を希求していく存在なのだ。その姿を見る我々観客は、まるで『マディソン郡の橋』において、イーストウッドの車に飛び移ろうかと逡巡するメリル・ストリープの手のアップを見たときの様に、激しく心を揺さぶられるだろう。
 しかし、それでもしかしと書かねばならない。しかし私はこの作品を見て激しく感動する反面、ある種の居心地の悪さを感じた。それはこの作品が私にとって決定的に他者であるという<乖離>の感覚を抱いたからに他ならない。この映画は観客が映像に感情移入する事で安易に患者さん達と同調しようとする事を厳しく拒絶している。それは患者さん達が鹿児島に裁判費用のカンパを求めに行ったシーンにおいて、患者さん達の横を通り過ぎる人々の中にもし私がいたらと考えてみるだけで十分だと思うが、私は何があっても私と患者さん達とは違うという<隔たり>の感覚をどうやっても消す事は出来ない。(こうした心理を見透かし、突き放すかの様に、カメラはカンパを求める患者さん達とその周りの通行人を俯瞰のロング・ショットで捉え、その後街の空撮映像へと切り替わる。)それは自らを患者さん達にとって絶対的な「異邦人」として位置づけた上で水俣に入り、撮影を行った土本典昭自身が内包していた感覚でもあるだろうが、少なくとも彼は作品を撮るプロセスの中で、患者さん達との<隔たり>を少しでも埋めようとしていっただろう。そして我々観客には患者さん達との<隔たり>に加え、作品との<隔たり>が残される。今年の10月11日に山形市にて行われた土本典昭シンポジウム“山猫争議”にて参加者の一人である山根貞男さんは土本典昭の最大の魅力を「開かれた映画として、個々人に多様な参画を促す」事にあると述べていた。当然我々観客は<隔たり>を埋める何かをしなければならないのであるが、今の私にとってそれが何なのか見つける事は容易ではない。


石田晃人

(1) http://wcnt2009.blogspot.com/ 中にある中村秀之の講演用原稿を参照