華開く束芋 —四点の新作について—            角尾 宣信

 キャンベルスープのポスターを作品にしたウォーホルは、彼の時代を「見えるように」しようと努め、その戦略として、あらゆるものを平坦なポスターイメージに押し込めてしまった。そもそもキャンベルスープ自体、「平」の字が憑きまとう。味が平凡、食べ方も平易、主に平民が食べる、と三拍子揃ったそれが、さらにその実体すら失い、平面になってしまう。究極の平凡凡庸。しかも、それが美術館の芸術作品として並ぶ。芸術はもとより、あらゆる特権もおろか、全ての個体の特異点までもローラで潰し、均し、平らにする試み。それこそ現代社会の様相というわけで、あらゆる固有性は情報の下に細分化し、メディアを流れ、全世界へ流通しているのである。あたかもポスターのように。確かに、ウォーホルの炙りだすこのような社会様態は現代でも然りである。確かに。

 ところが、同じくその現代社会の様態を、日常生活の風景から「見えるように」せんとしてきた束芋の新作は、空間を指向しているかのように思われた。立体的に交叉させた複数のスクリーンでの上映、部屋という空間を主題に置いている作品群、遠近を強調した部屋の描写とスクリーンの配置。アニメという表現手段を使っておきながら、この芸術家はどうして平面ではなく空間を志すのか。この点について、今回の横浜美術館における個展にてお目見えした諸作品を手がかりに、解明してみたいと思うのである。

 美術館を入る前に、我々は違和感を感じるだろう。館内が暗い。今日は美術館は休みか、いやそんなことはない、昨日インターネットで休館日は木曜日と確認し、今日は果たして、水曜日だ。確かに、漢字が似ている。と考えつつ近寄っていくと、受付の女性がやって来てくれる。ます我々はエントランスにて、束芋の『団地層』に遭遇するよう、仕組まれているのだ。暗いのはそのためだ。団地の部屋に配置された家具・寝具・衣類などなど全てが、迫り出してくるふすまや壁に押されて、寒天を押し出すように、ただただバラバラと落ちていく。アニメーションはエントランスの壁面にプロジェクトされているので、確かにここには冒頭で示したような空間性はない。しかし、落ちていく運動は、明らかに下方の空間を意識させる。壁面の下方奥にブラックホールか奈落の底か、何らかの漠たる空間がある、という不気味な予感。落ちていく物は、全てゆっくりと、スローモーションのように落ちていく。その遅滞が、落下の際限なさやモノクロの映像や住人の不在(所有者という固有の人間がいるのではなく、所有物が所有者を定義してしまう、という逆転)とあいまって、見る者の徒労感を精製し続ける。これらの物体は、落下以前、遠近法によって描かれた団地のもろもろの部屋にあるとき、確かに立体として存在しているように見える。しかし、漆黒を背景として落下する段になると、部屋という上下左右縦横のパースペクティヴを失い、実体や立体感を失っていき、また個々の区別もつかず、平板になってしまう。この時点では、ウォーホルのキャンベルスープと同じ方向性、立体・実体から平面への方向なのだ。しかし、束芋の作品は、「そこから先」を考えている。全てが価値を同じく死ぬなら、その後、その全てはどこに行くのだろうか、「何らかの漠たる空間」があるのか、あるならそれは何か、という一連の問いこそが束芋の新作の始点・エントランスであり、束芋的空間・三次元が登場するのは、この地点からなのである。ただ今のところは、とりあえず立体→平面→空間というプロセスを確認すると共に、この不明瞭な三次元空間を、先ほどの不気味な予感に沿って、「万物の墓場としてのブラックホール」くらいに捉えておき、まずは先へ行こう。

 順路に従って美術館を進む。最初の展示室で、早くも我々は、膨大な長さの絵巻を見るよう強要される。束芋もなかなかハイテンションだ。さて、絵巻は、吉田修一の『悪人』という新聞小説の挿絵なのだが、信濃川もびっくりの長さである。しかし、この絵巻も日本最長河川と同じく流れているのであって、電話ボックスが、中にいる女の髪によって、外部の自動車へと、それが大きな指によって断ち切られ、その指がラーメンをすすると、ラーメンは髪になって、男ののっぺらぼうに繋がると、その顔はぐんにゃり曲がっている、というように、物体と身体(内蔵系の描写も多い)と記号(1円玉とかチケットとか文字情報を含む記号)とが、三位一体となり、シュールレアリスティックな様をなしている。しかしここで重要なのは、それが次々に繋がって終わりなく続いていくという、その感覚である。シュールレアリズムにあっては、共時間内、キャンバスという同空間で、いかに物同士が共鳴しあったり、複数の意味の間を震えあったりしているかが問題であった。しかし、束芋は、それを絵巻にすることで、時間を経過させ、そこに速度と物語を生成したのだ。ある一つの力が、どのように伝わり(電話ボックス→髪→自動車)、どのように分節化され(自動車|指|ラーメン)、どのように時間を埋めているのか(速度と物語)。この切断と接続が、指と髪によって各々なされているのである。しかも、自動車や電話ボックスといった物体同士が互いに接続するのに加え、耳や口や内臓など、身体・体内臓器までもがそれらに自在に接続している。あたかも、物体と身体が等価になってしまったかのように。我々はラーメンか、、。いや、しかし、この作品は、その速度ゆえに、全く悲観的ではない。流暢な語部のおとぎ話を聞くようだ。また、髪と指が中心的モチーフとなっていることから、束芋の主題は流れと接続と切断であり、これは極めてドゥルーズ的�とも言える。そして、その絵巻は、紙という平面に描かれたにすぎないにも関わらず、また何とも美しい。

 では、接続と切断を担うのは誰なのか、もしくは何なのか。髪と指という表現の裏にある思索を探ろうと思う。そう考えると、まず頭に浮かぶのは、それこそ脳である、という解答だ。多くの人々は、精神的次元において接続と切断を行うと考える。つまり、彼らは、考えること自体をこのように考えるのだ。よって、これは嘘つきが嘘つきについて考えるのと同様であり、信用ならないものである。ゆえに正しくも束芋は、脳を見捨てる。『油断髪』では、脳は床に落ちて無様に潰れ、心臓が虫になって飛んでいく。この4分ほどの物語を作り出すのは、相変わらず髪と指である。髪が幕となり、指が幕を開ける(接続と切断)。その外に行くことができたのは虫=心臓だけであった。『ちぎれちぎれ』はどうか。展示室へはいると、我々は上空へと飛んでいく足や手を見る。しかし、頭だけは、飛んでいかなかった、、。不穏なボコボコと泡立つ音を序奏に、『BLOW』でも脳は背骨の先に、花開く中に、一瞬出てくるのみだ。脳<背骨とでも言いたげなのであって、束芋の作品の中で、脳の地位は、通常考えられている価値観からすると、極めて低いと言える。代わりに重要なのは、身体自身である。あらゆる物体、あらゆる他の身体と接続し、切断し、侵入し、侵入される身体が、しかも、触れたり掴んだりする手、脈打つ心臓、外へ広がりかまらる髪と、機能各に分断された身体こそが、重要であり、生産の場なのであると。束芋は一種の身体機能論者である。

 ところで、我々の思索には、当初の「万物の墓場としてのブラックホール」問題が取り残されている。「万物の墓場としてのブラックホール」とはいかなる空間なのか。取り残された問題は、取り残された作品から探ってみよう。『団断』のスクリーンは、上下に極度の遠近を持った平面スクリーン、正面にそれら二つと奥で接続される横幅を同じくする横長のスクリーン、計3つの部分からなる。団地の各部屋の様子が、上下のスクリーンに手前を上にして俯瞰として映され、正面スクリーンには、上下スクリーンに映された部分の間(上下スクリーンには別々の部屋の様子が映っているので、その両者の間)が、間取りとして表示されている。この上下スクリーンは、若干の傾斜を付けられているものの、できる限り水平に近似して知覚できるよう設計されており、つまり、部屋の様子、部屋にある個物は全て、押しつぶされて平面化されているように見える。カメラは上下左右と奥・手前の運動をしながら、ある部屋から隣の部屋、または上階下階の部屋を映し出す。室内には時折、人がいて、各々の交流はなく、ある者は殺されていたり、ある者は風呂場で溺死しようと勤しんでいたり、ある者は冷蔵庫に入ったり、ある者は洗濯機から出てきて回転しながら携帯電話で通話する。不穏な音声の増幅と共に、突然、正面スクリーンの間取り(ここでは畳敷き)が抜ける。と、『団地層』と同様、カメラの動きに合わせて、壁に押されて、部屋のあらゆる個物が、正面スクリーン奥、床が抜けた闇の奥へ、小さくなりつつ、落ちていって消えていく、、。単に『団地層』の変奏とも思える作品なのだが、まず重要なのは正面の平面スクリーンの奥、という空間である。スクリーン奥へ沈んでいく個物たちは、至って平面的なアニメーションにすぎない。それらは奈落の底に沈んだ、、。するとこの「万物の墓場としてのブラックホール」に当たるのは、この正面の平面スクリーンではないか、と思えてくる。それは確かに、スクリーンという点で平面でしかないが、上下のスクリーン、つまり、『団地層』においては地面に対して垂直であった美術館の壁面に当たる部分と、垂直関係にある平面だ。よって「万物の墓場としてのブラックホール」という空間は、実は「空間」ではなく、価値を失って平たくなって、奈落へ落ち込むキャンベルスープのポスターたちが、ペラペラとそこに横たわる、落下運動の方向ベクトルと素直の、無限の下方にある、平べったな床なのである。そして空間の方は、落下運動の場としての平面と、その奈落の底の平面がおりなす、その二平面に囲まれた何もない部分に展開していると言うべきなのだ。全てが沈みきったあと、その空間では何が起きるのか。確かに落下していくポスターたちの通り道でもあるのだが、それだけではない。『悪人』という絵巻が、卓上ではなく、壁面に平行に、しかし照らし出されて、壁から浮き「立てて」あったことからすると、束芋の空間とは、平面が遍在する世界の中で、その平面を接続して作った中空立体の、まさにその中空の部分であり、その中空では、身体の接続・切断が展開していると言える。束芋の空間とは、身体の物語が立ち上がる場ではないか。そして、だからこそ、『ちぎれちぎれ』でばらばらに機能化された身体(皮膚という仮面を取り去った身体、自身の機能を明示する身体、つまり接続.切断の基盤)は、鏡が幻出する中空を、浮上していったのではないか。

 さて、先ほどの『団断』が『団地層』の一変奏にすぎないと我々を見誤らせない、最も注目すべきは、この『団断』には、外から来た鳩という新参者がいるということではないだろうか。上下のスクリーンに平面化された団地には、割れた窓から一羽の鳩が入ってくる。鳩は団地内の死体をつついており、その鳥はその部屋が現れる度に大きくなる。しかし、正面スクリーンの底が抜けて、全スクリーンが暗転した後、鳩は暗闇の中を羽ばたき、上・下・正面という全3スクリーンを下方から上方へ、3回繰り返し飛んでいく。その平面構造を無視し、その遠近法を嘲笑するように大きさを変化させ、鷹揚に3度飛翔する。この時、背景が黒画面が背景となっているので、スクリーンは周囲の闇に没し、平面構造は消失し、空間への移行がなされる。ここで現れるのは、前述の中空だが、そここそ、外部にあった者、個の集合体の外にある者、闇からの侵入者が、無限下方にある奈落の底に定着せず、飛翔する場なのである。ここで更に、この中空・束芋的空間の、上昇・飛翔(立ち上がりからの発展としての)という特質が現れることになる。

 では、この空間の住人を見てみよう。この空間にいるのは、人間ではない。人間の身体(『悪人』の絵巻、『ちぎれちぎれ』のバラバラ身体)であり、鳥(『団断』の鳩)であり、虫(『油断髪』の心臓が変身した甲虫、『ちぎれちぎれ』の同じく心臓から孵った蛾?蝶?)であり、そして花(『BLOW』の開花するザクロ?・バラ・椿・百合・キノコ)に至るのだ。なぜ花か。『BLOW』の空間に入ってみよう。そこでは、我々の足下から、不穏なボコボコと泡立つ音と共に、筋肉や骨など、機能化された身体が、蛇やら魚やらのごとく、中空空間を、床から不気味に湾曲し「立ち」上がった平面 �を、浮上し�、そして、水面に顔を出すや、花を咲かせる。機能化された身体=あらゆる平面に接続する身体こそが物語り、物語は新たな接続・切断の生産であり、ゆえにそれは上昇であり、花が咲くことである。「話に花咲く」とはよく言ったものだ。全てが失われた、全てが奈落の底に消えた、その暗闇でもがく身体は、実は、その機能を羽ばたかせ、接続と切断の不断の上昇運動=物語生産を行っているのであり、その運動が、結局は平面的花�に至るとしても、それは中空空間への浮上であり、無限に可能な�豊饒な開華�なのだ。全てが平面化するウォーホル的現状は、全てを押し潰し、闇に沈めたが、しかしそれ故にこそ、身体と物体の区別を超越した自在な接続と切断、変化・昇華・開華、つまり万物の核心たる運動の次元を極限まで解放したのでもあったのだ。こうして束芋は世界を肯定する。しかも漆黒の虚空に咲く華という、宇宙で最も美しい表象において。現代社会へのシニカルと絶縁した、その闇の中空で。ゆえに、感動する。


・脚注

� ただ個という主題から出発する束芋は、ここでは一筋の時間の流れを意識させる絵巻を採用しているので、多元的相互作用としてのリゾーム概念の表現に至っていない。確かにこの絵巻でも多くの要素が絡まり合っているが、それらを通過しているのはあくまで一つの力線である。ここに束芋の現時点での限界があるようにも思われ、彼女にあっては、『ミル・プラトー』を体現する作品はまだ形成されていないのである。ただ、「現時点での」の断る必要があるのは、『BLOW』の前に、5つの植物が開花する瞬間を並列した作品があるからで、そこでは5つの生物が5つなりにランダムに開花する瞬間を、現実世界の時間の経過・小さな個々の力の積み重なりとしての世界の凄まじさ(開いてから再び蕾に戻るとき、高速巻き戻しされるため、観客は小さな諸力の偉大さを知る)を、観客に体験させる(その運動が現実と同じくとても緩慢なために、観客は根気を強いられるのだが)。ただ、5つの生物は個々の画面に分割されているため、それら相互間での作用はやはり立ち現れてきていないのである。しかしまた、今回、束芋は、「開花」、つまり、これまで個別的・没干渉的な個が外部に開くことを新たな主題として提示したので、今後どのような展開を見せるか、注目する必要がある。
� 『悪人』の中空に「立て」られた絵巻、『油断髪』の起立しつつ湾曲することで平面であることをズラしたスクリーン、『団断』の鳩の飛翔による平面-直方体構造から空間への移行、『ちぎれちぎれ』のスクリーンの在り処を巧妙に隠蔽する鏡を使った複雑巧妙な装置、そして、それらを経た後に、『BLOW』の、床から湾曲・浮上し、空間を浮遊する平面が現われる、と考えるべきであろう。束芋の思考過程に手を触れる感覚がする。束芋的空間とは、平面を虚空に消尽したあとの、ウォーホルの先にある空間、
� ここで上へ志向する身体部位である足が、大きく強調されて水面に顔を出し、花を付けることは注目に値する。しかも、足は脳の真逆にあるし、あらゆる場へと移動し、そこでの接続を決定づける。
� たしかにそれは、平面スクリーン上に投影された映像でしかない。しかし『悪人』の絵巻を思い出してほしい。平面でありながら、平面を超えた豊かさ。
� 接続と切断は全てが平面化したからこそ、あらゆる可能性を開かれた。というのも、平面化する以前では、違うレベル・階級にあるもの同士は接続と切断を禁じられていたからだ。
� 接続と切断による生産を体現するものとして。その豊かさを、ザクロ?・バラ・椿・百合・キノコ!という多様さ(もはや花ではなく華)や、『悪人』の長大さと比例するモチーフの過剰さから感じ取るべきではないか。