『風と共に散る』(ダグラス・サーク、1956)

 「メロドラマ」という言葉がその内に孕むどこか楽天的なイメージほど本作からかけ離れたものは無い。メロドラマの巨匠ダグラス・サークが撮った本作において描かれるのは徹底してすれ違う人間の有様である。石油会社のミッチ(ロック・ハドソン)とその親友であり若社長であるガイル(ロバート・スタック)、ガイルの妻ルーシー(ローレン・バコール)とガイルの妹マリリー(ドロシー・マローン)の四人が主な登場人物であり、ミッチはルーシーに惚れているが親友を思って言い出せず、マリリーはミッチのことを愛しているがミッチは振り向いてはくれない、といった具合にその四人の関係がほどよい構図に収まってくれることはない。円滑進んでいたかに見えたガイルとルーシーの関係でさえ、不在の胎児によって亀裂が走ることになるだろう。
 そして一度入った亀裂は修復されない。吉兆であるはずのルーシーの妊娠の知らせも、ガイルに下された種無しの診断の後では、またミッチとルーシーが二人で出かけるのを目撃された後では、遅すぎるのだ。画面に残されるのはその「取り返しのつかなさ」という感覚だけである。(それは今作の物語構造が映画の冒頭とラストを現在時として提示し、中盤において過去の出来事を語る、という一種の円環構造となっていることでも強調される。つまり最初に破滅が描かれ、一度時間は戻るがあとは破滅への道をひたすら突き進む、といった具合に。)そして登場人物達はその「取り返しのつかなさ」という感覚を意識しながらもまさにそれが取り返しがつかないもののゆえに一気に破滅への道を辿る。破滅した現在から逃れるために彼らが出来ることはそれ以前のまだマシであった世界のイメージ、過去の幸福なイメージにすがることだけである(ミッチとガイルとマリリーの幼年時代の川辺の思い出)。取り返しのつかない(もう戻れはしない)過去に希望を抱くこと、この屈折した行為にしか幸福のイメージを見出せないとは何と悲劇的なことであろうか。
 しかしそれだけでは終わらないのが本作の恐ろしさである。注意しなければいけないことは三人の幼年時代のイメージが画面から周到に排除させられていることだ。三人の幸福なイメージがフラッシュバックでインサートされていればその対比で現在の悲劇性が浮かび上がると考えるのが普通なのだから、これは作劇上のミスと考えられるかもしれない。しかしそのイメージは画面にはない。そこで恐ろしい仮定が浮かび上がる。すなわち、過去においても幸福なイメージなど無かったのではないか、と。無論これは推測にすぎないが、少なくとも、この破滅した現在において幸福なイメージが入り込む余地はない、と映画が言っていると読むことは出来る。破滅していく現在をその破滅を止めることも出来ず、また、もはやそこから一時も逃れることが出来ない。こんな絶望があるだろうか。
 映画はラストにおいてミッチとルーシーの旅立ちを描いて終わる。ガイル家にほぼ場所を限定して描かれていた破滅の物語が、その場所から出て行くことでようやく終わるのだ。二人の旅立ちが破滅の物語からの脱出なのか、あるいはまた新たな破滅への物語にすぎないのか、それはもちろんわからないが。


石田晃人